「コミュニケーション」と「知識」についてメモ
私たちが自分について知りたいと思う事は他者を経由してしか入手されない。
たぶんそれは、知識は「ふえる」という運動態においてのみ意味があることで、「ある」という静止状態では意味がないと私が考えていることに関係があります。
「知識がある」ことは「よいこと」だと言いますけれど、それは「知識がない」人よりも「知識がある」人の方が「知識がふえる」運動が多様かつ高速で展開するからです。「知識がある」こと自体には何の意味もありません。(中略)
何が悲しくて「自分がもう知っていること」を印字するのに手間ひまをかける人間がおりましょう。よく外国映画で、教室で騒いだ生徒に罰として、「二度とこんなことはいたしません」と黒板に百回書かせる、というようなシーンがありますね。「もうわかっている」ことを書くのは本人にとっては苦痛のはずなんです。
私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。
内田樹『態度が悪くてすみません ー内なる「他者」との出会い』 角川oneテーマ21
P8-P9
